top of page

禅の世界へ

坐禅になっているか?

 

「只管打坐」と言われるように、坐禅は曹洞宗の教えの根幹です。

坐禅は国内のみならず世界で広く認識され、坐禅の経験のある方、作法や言葉の意味などを知っている方は多くいらっしゃいます。しかしながら、せっかく坐禅をされているにも関わらず、

「ただ坐っているだけ」の坐禅になっている方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。

 

 

現代社会において、坐禅に触れる機会、そして動機や目的は限定的なものです。坐禅の時間を継続して持ち続けることは容易ではありませんし、ストレス発散や健康管理といった目的がなければモチベーションを持ち続けることが難しいのかもしれません。また、それはそれで坐禅が社会にあった形で浸透しているということなのかもしれません。

しかし、それゆえに、作法などのイントロダクションを知るだけに留まってしまったり、目的達成のノウハウを学ぶスクールになってしまうことが往々にしてあります。作法に則っていたとしても、あとは静かにして坐っているだけでは、「只管打坐」だからといって、それは坐禅ではありません。はるか昔より祖師方が伝えられてきた坐禅とはまったく違うものになってしまいます。

 

 

もちろん、坐禅をはじめたばかりの時にはただ坐っているだけでも特別なことですし、坐禅によって得られる癒しや健康も歓迎すべきことでありますが、それで終わるにはもったいないものが、坐禅には待っています。みなさんの坐禅を深めるには、試行錯誤が必要です。その試行錯誤はどうすればいいのでしょうか。

坐禅を深める

 

坐禅の本当の姿をはっきりとした形で説明することは、残念ながら誰にもできないかもしれません。あるいは、習練や勉強といったものだけでも、知りえるものではありません。

 

しかしながら、布教教化をする側からすれば、坐禅は坐禅しないとわからないと突き放してしまうのではなく、できるだけ坐禅の像が伝わるように、その努力はすべきものです。

坐禅会などの機会をもち、僧侶や師と縁を持つこと、習練や勉強をすることは、少なからずみなさんの役に立つと思っています。

 

 

日本には禅宗の曹洞宗、臨済宗や黄檗宗の坐禅のほかに、天台宗の止観、真言宗の阿字観などの瞑想というように、作法や考え方の違うものがさまざまあります。それらは、目指している方向は同じですので、それぞれの違いは大きな問題ではないのかもしれません。

しかし、みなさんの坐禅をもっと深めようとする時には、この違いを知っておかなくてはならないでしょう。

當院は「曹洞宗」、「只管打坐」の坐禅です。

ここでは、そのルーツや考え方の違いをご紹介するとともに、祖師方のお言葉をお借りしながら、みなさんが持たれている只管打坐の坐禅像に少しでもよい変化があればよいと考えています。

お釈迦様の坐禅

 

曹洞宗では、12月8日に成道会(じょうどうえ)という行持が行われます。

これは、曹洞宗の本尊様であるお釈迦様(釈尊)が、禅定の修行や6年にも及ぶ非常に厳しい苦行の末に、それが釈尊の抱える問題を解決するには至らず、ついにインドのブッダガヤの菩提樹の下で静かに坐禅に入られ、8日後の12月8日の明けの明星を仰いだときに悟りを開かれたこと、それを讃えるための行持です。

曹洞宗の坐禅のルーツは、この釈尊の坐禅にあります。

 

そこで、釈尊の坐禅について少しお話をします。

仏教以前のインドより「禅定(ぜんじょう)」と言われる瞑想が広く行われていました。

心を統一すること、静かに止めることを原始仏教時代の言葉でジャーナ(jhana)といい、音写して「禅那」という言葉があります。また、その状態になっていることをサマーディ(samâdhi)といい、音写して「三昧」、「定」となります。これを合わせた「禅定」と呼ばれる瞑想が坐禅の起源といえます。

 

禅定は「止(サマタ)瞑想」といわれ、ひとつのものに集中し続け心を静かに定める、三昧となるもので、釈尊も出家してすぐに「禅定」を学ばれました。禅定は釈尊によってより深められ、その内容は原始仏典で体系的にまとめられ現代へ伝えられています。

釈尊はその上で、仏教ならではの瞑想法を開拓され、悟りを開かれました。それは、「観 (ヴィパッサナ)瞑想」といわれ、「止瞑想」に対して「観瞑想」は次々と変化し続ける現象に気づく、観ずるものです。

さっそく難しい言葉になってしまいましたが、この違いが肝要なところであります。

坐禅中の心得として「観ずるもの」と理解しておくとよいかもしれません。

bottom of page